映画「カナルタ」で思う、ヴィジョンを得る大切さ

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去年のことになりますが、「カナルタ~螺旋状の夢~」という映画を観ました。

監督が南米エクアドルの森の奥深くに暮らす先住民と1年間共に暮らし、彼らとの密接な距離感で撮られたドキュメンタリー映画。


通り一遍の観光旅行では まず見られないような、意識の深い所に入って行かされるようなシーンがたくさんあり、その映像体験に圧倒されて帰ってきました。

(画像は、イメージフォーラムさんからお借りしました)


シュアール族という先住民族のメディスンマンの男性が主人公なのですが、映画の大半のシーンは、何気ない日常が淡々と描かれています。


でも、その何気ない日常も、村人総出で森のずっと奥深くに分け入って屋根に敷く草を刈ってきたり、ゆでたイモを口で噛んで出して、唾液で発酵させた口嚙み酒というお酒を飲んだり、私たちが一生かかっても体験しないだろう異文化の連続。


その中でも、特に印象に残ったのは、主人公セバスチャンがヴィジョンについて語るシーンでした。


彼らは自分の将来について、そして自分の使命について若い頃にヴィジョンを視ようとするそうです。そして、彼の視たヴィジョンの通りに現実が動いていった、と言うか、そのヴィジョンを信じて、その方向に彼が動いていくことで、それが現実的に形となっていった、と言う感じ。


私も瞑想や施術をしている時に、ヴィジョンがやってくることがよくあります。

思考を超えた世界からやってくるので、思いもがけないものが視えたりすることがあって、「それって、ほんまなん?」と疑ってしまうこともありますし、抵抗が出てくることもあります。


そうしたヴィジョン通りに進まない事もありますし、実現するのに時間がかかることもあります。何年も前に視たのに、実現していないものもあります。


でも、実現するのが大切というより、そうした人智を超えた世界から来たものを見せられることによって、それを信じることによって何か謙虚になれたりする、そのことが大切なんじゃないのかな。。。とも思ったりします。


人生は自分の思い通りにはならないもので、必ず”見えない手”が介在しているんだと、自分の意志を超えた何か大きな意識が自分の人生を作っている、ということが本当に腑に落ちた時に、「自分は生かされている」と感謝出来るようになるような気がするんですよね。


また、メディスンマンでもあるセバスチャンは、薬草の研究をしているのですが、研究と言っても文献を読んだりする知的な研究ではありません。


森に入って、まだ知らない草を見つけた時に、その草と身体的な感覚を通じて対話し、目で見て匂いをかいで口に含んで…と、五感を全て使って確かめようとする、その身体性を、私たち都会で暮らしている人間は脇に置いて生活してしまっているんじゃないかな。


ヴィジョンを視る時に使う幻覚植物についても、きっと扱い方などが代々受け継がれているんじゃないだろうか、だからドラッグ中毒みたいなことにならずに健全に植物と向かい合い、謙虚にその力を借りているんだろうなと、すごく考えさせられました。


思考の知性ではなく、身体の知性を大事にした生き方。。。流行のSDGsも良いのですが、頭ではなく身体の感性に従ってみると、案外持続可能な社会に迎えるんじゃないだろうかと、そんな風に思える映画でした。